大切なのは、神仏の方向です。AI事業も、文化も、思想も、全ては実務的、実用的に世の中を見る姿勢の中に、違う次元を持ち込むことで、人々の生き方や暮らしの不思議な風通しを作ること。生命や幸福、生きること、使命、色々な不思議な命の現象を豊かに捉えること。
しるしは神や仏、世界や宇宙の真理という聖なるものとのつながりをもたらすものだったり、音楽のように私たちの心身の核に直接響いてくるものだったりする。風景と心情の説明に言葉をつくすのと、一つの和歌として伝えられるのでは心への響き方が違う。しるしはそういう響きをもたらすもの。
現代はビジュアル的なしるしは特に日本ではかなり少なくなってきたように見えます。服にも建築にも装飾が排除されている。カラバリは増えていますが、かといってシンボルマークも図形のようなものばかり。それがいいとか悪いではなく、何を示しているのかも検討したいですね。
全ての代表的な印はどこかの世界にリンクを貼っている。世界のかけらが埋め込まれている。そしてそれが使い手に、押されるものに、影響を与えて、世界や未来を少しだけでも作っている。
しるし、という言葉で私が語ろうとしていたのは、そこに文学も芸術も宗教もデザインもつながるからです。判子屋がもう一つ向こう側の世界を作っていくにはふさわしい軸だと思いました。
うちの伊勢湾台風で使ってしまった資料も、インクで押したゴム印の印影はほとんど消えかけているけど、朱肉は何も変わらない。残す、という意味では特別なものですね。
手紙の消印の意味はなんでしょうね。詩的に捉えると、その出来事に日付が与えられることの意味になるけれど、手書きの日付ではなく判子の日付に意味があるのかな。
残す、ということを考えたいですね。しるしは伝えるためというよりも、残していく時に何か特別なものだったのかもしれない。
私たちは、いつかいなくなる、その時に何を残すのか。この日々も遠い過去になる、その時に何を残すのか。判子、しるし、の観点から、旅のしるしを考えます。
例えば名古屋のしるしの木を描いて、その先に、包むしるし、見上げるしるし、纏うしるし、繋ぐしるし、謡うしるし、がそれぞれ生えてきている。
判子はデジタルなものだった。だからより良いデジタルに駆逐されるのは当然。判子は再び本来の狭く濃い領域で使い手を待つことになった。
その時に判子が現代的な意義を持つとしたら、しるし的な部分。そしてそれを担う上で、しるし全体を司る人が必要なのです。
自分は判子は使わないけど、言葉を使って自分を支えたり、好きになったりしている。何かを尊く思う気持ちやそう思わせてくれるさまざまなのに生かされている。私が必要な印は多分無形のものだけど、無形の存在を感じるための仕組みや仕掛け、そのために作られたもの、神様を感じるための棚のようなものが私が欲しいもので、届けられるものなのかもしれないね。
紙に万年筆でもいいですが、書きながら、印を押すことで、スマホでメッセージを送ったり書き残したりするのとは違う形で残る。私とは別の何かの存在が、そこには結ばれる、ということです。
